肉 体


一番最初は言葉を失くした 

かつてこの唇は他愛のない笑い話や 誰かに向けたいたわりの言葉を放ったり 

そしてゆるやかに笑みを浮かべたものだった

時には誰かを罵って汚い言葉を吐いてみたり 

誰もひもとかないような小さな嘘をついてみたり

その場限りの生返事をしてみたり それは一つの方向に向かう言葉ではなく

その時々に少しづつ自分も変わるものだから 

ゆるやかな弧を描いて誰かに届いたものだった

 

その次には声を失った 

あなたの耳元で放った甘く鼻にかかった溜息や

雑踏の中精いっぱいに張り上げた歌声 友を励ますために優しく諭した中域の音

怒れる時はその強さを増して 悲しむ時はささやくように弱くなった

あなたがあたしを貫いた時には 小さく叫びを上げた

数え切れない表情を持った声

 

三番目に歩く足を失くした

踵をすり減らしたブーツは色々な景色を 通り過ぎてきたものだった

歩きすぎて硬い皮膚をつけた両足の小指は あたし自身の誇りであり

時々立ち止まりはしたけれども とりあえず歩けるだけは歩いた

唄う時は力強く地面を蹴飛ばして 

体裁のいいパーカッションになってくれたものだった

もう歩けないと思想は足に命令をしたが 足はいつの間に自ら意志を持ち

重すぎた思想をもその方向に導いた

道の向こうに誰かが待っているのであれば 遅れないようにペースを一定に保ったし

信号が赤になったなら 回り道をしたほうが早いかもと道を選んだ

 

四番目に抱きしめる手を失くした かつて愛したあなたの背中を抱きしめて

小さく傷跡を残した短く切りそろえた爪や 

つないだまま一緒に走った肉付きのいい赤い手のひら

ギターを抱えてずっと歩いたり 力強いリズムを刻んだ少し筋肉のついた右腕や

本を読めばめくる右手の格好の助手になってくれた利口な左手

自分の子供を抱えた事のない丸い二の腕

せわしなく指先は常に何かを残そうと書き連ねた

そして最後の一ページをめくった後で あたしの手は全ての機能を止めた

 

そして今考えている この次に止まるのはきっと思想だろう

あたしは何を思ってきただろう 忘れてしまった事すら、今はもう思い出せない

その時々に概念にとらわれて 誰かを愛したつもりになったり

それが本当に愛したと言える事だったり だけど本当は愛してなかった事だったり

錯覚をした思想

人の目に自分がどう写るかだなんて ささいな事でも悩んだ

時々は気の利いた言葉を吐いてみたいだなんて いつも空回りしていた

本当はいちばん愛されたがっていたのは この思想ってヤツだったんじゃないかと

今更ながら少し気付いた

 

あたしはこの体が好きだった 半分以上ただの肉塊になって

横たわり記憶の空を見ている

あたしがいま横たわっているのは あの頃さまよった新宿中央公園の空の下なんかじゃなく

明かりの落ちた一人の部屋

記憶を少し旅したなら 愛した事も忘れて 今まで耳にしたどんな綺麗な音も忘れて

あたしは深い眠りに落ちるだろう


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